朝鮮銀行券
朝鮮銀行設立の経緯と情勢
19世紀、日本では明治維新が起こりました。日本の政権は、徳川家から天皇家に奉還され、その元で西日本出身者から構成される新政府が、日本を治めることになりました。新政府は、鎖国政策を改め、西洋の進んだ技術を採り入れることにしました。なぜなら、強い国となり、欧米諸国と互角に渡り合える様にしておかないと、欧米諸国に攻め込まれて、植民地にされてしまう危険が大きい時代だったからです。実際、アジアの国々は日本とタイ王国を除いて、皆、欧米諸国の植民地になっていました。一方、朝鮮半島では14世紀より続いていた、李王朝が政治を行っていました。500年が経過した統治システムは疲弊が進んでいました。国内は乱れ、経済発展も遅れた状態でした。海外情勢の変化を受けて、朝鮮においても、近代化改革をしようとする人々が立ち上がりました。しかし、従来の政治体制の継続を望む人々も大勢いたため、改革は、何度も失敗しました。
日清戦争後、朝鮮の宗主国(従属国に対して宗主権を有する国家)だった清国は朝鮮から撤退しました。「権力の空白」が生まれた朝鮮半島では日本と太平洋進出を狙うロシア帝国が対峙するようになります。日露間の朝鮮半島分割交渉が決裂したことにより、日露戦争が勃発します。ポーツマス条約では、日本の朝鮮半島における優先権が認められました。ただ、多くの犠牲を払ったにも拘らず賠償金については全く認められなかったため、日本国内では朝鮮半島の経営により、これを補うべしとの意見が台頭します。韓国統監・伊藤博文は、「日本は韓国を併合するの必要なし、合併は甚だ厄介なり、韓国は自治を要す。然かも日本の指導なくんば健全なる自治を遂げがたし」と自ら語るほど日韓併合に否定的な態度でした。ところが、なぜか伊藤が、よりによって韓国人・安重根に射殺されたため、時代は日韓両国の併合へと動き始めます。また、朝鮮半島においても、朝鮮の日本への併合を唱える人々が現れ始めました。こうした過程を経て、1910年(明治43年)8月、日韓併合条約が調印されました。大日本帝国と大韓帝国は一つの国となり、新しい「大日本帝国」が始まりました。ちなみに、元国王であった李王家は、日本の華族(旧身分制度において、皇族・貴族出身者をさす)として、迎えられました。
朝鮮半島では従来、「朝鮮通寶」「常平通寶」などの銭貨(時代劇「銭形平次」が投げているような、四角い穴の開いたコイン)が発行されていました。しかし、貨幣の使用が浸透せず、貨幣経済は発展しませんでした。朝鮮末期には近代的貨幣制度を設けようとする動きが起こりましたが、これまた改革派と守旧派との改革をめぐる争いに巻き込まれます。結果、朝鮮内の貨幣制度は混乱していました。また、金銀貨や紙幣といった、高額の決済手段がなかったため、日本ならば1円銀貨1枚で済む買い物が、銅銭500枚を必要とする有様で、貿易をする上で、極めて非効率な環境でした。そのうえ、日本の銀貨、銀行券、ロシアの金銀銅貨、朝鮮の新型白銅貨が入り乱れて流通し、新型白銅貨は偽造が横行するという、すさんだ状態にありました。貿易のしやすい環境を整備するために、日本の民間銀行、「第一銀行」(渋沢栄一が設立・現在のみずほ銀行)が釜山に支店を開きました。そして、日本の円と交換が約束されている「第一銀行券」を発行しました。第一銀行券はロシア帝国の妨害にもめげず、韓国の法定通貨としての地位を確立しました。明治36年(1903)、大韓帝国政府は、「中央銀行条例」と「兌換金券条例」を発布し、自らの手により貨幣制度を再建しようと試みます。しかし翌年、日露戦争が勃発すると、状況は一変します。大日本帝国政府は大韓帝国政府と、「日韓議定書」を取り交わしました。内容は、「大韓帝国政府は大日本帝国政府を信じて、施設(社会制度システム)の改善についてその忠告を受け入れる」というものです。それをもとに「対韓施設綱領」が元老院で決定され、次に桂太郎首相、小村寿太郎外相、曾禰荒助(そね あらすけ)蔵相と目賀田種太郎(めがた たねたろう)大蔵省主税局長との間で、「就任前協商条項」がまとめられました。「就任前協商条項」では、第一段階として「日本と同一の通貨制度をつくり、日本貨幣に韓国法定通貨と同様の価値を与える」事が決定されます。同時に、「韓国中央銀行設立とそれに類する議論は退ける」とも記載されました。
その後も第一銀行は韓国内での業務を続けていましたが、やはり一国の中央銀行が、日本の民間金融機関ではふさわしくないとの思惑から、第一銀行の業務を引き継ぐ形で株式会社「朝鮮銀行」が設立されました。朝鮮銀行は日本皇室と旧韓国・李王家などが、出資(お金を出し合う)して設立され、明治42年(1909)から昭和20年(1945)まで、「朝鮮銀行券」(鮮銀券)の発券業務などを行っていました。朝鮮銀行券の円は日本銀行券の円と等価交換することができ、また日本円は朝鮮で使用することが出来ました。逆に、朝鮮銀行の円は日本国内で使用できませんでした。代わりに陸続きになっている中国大陸においては、一部地域で使用することも可能でした。
ところで、どうして対馬海峡を隔てただけの距離にあった朝鮮半島で日本銀行が発行する「日本銀行兌換券」(昭和19年からは、日本銀行券)ではなく、わざわざ新銀行まで設立して銀行券を発行しなければならなかったのでしょうか。理由には、いくつか考えられますが、中国大陸と隣接した朝鮮半島にて同じ日本銀行券を使用すると、有事の際に大陸・朝鮮における貨幣制度が混乱した場合、日本本土でも通貨価値の混乱を招く恐れがあるから、などと説明されています。つまり、中国大陸の「圓」と日本帝国の「圓」の緩衝地帯の役割が期待されていたわけです。
その後、大日本帝国はアメリカ合衆国と戦い、敗れました。大日本帝国の領土は明治維新の時に領有していた範囲まで分割・縮小されます。そして、現行の日本国憲法の下で、日本国は新しいスタートを切りました。戦後の混乱等により、中国・韓国ではインフレが猛威を振るいました。しかし、それらの通貨と朝鮮銀行券および日本円との兌換関係は容易に切り離すことが出来たため、日本においては国内における需給の不一致によるインフレが起こるのみであり、経済に壊滅的な悪影響を及ぼすようなインフレを防止することが出来ました。ここで紹介しているのは、70余年前より日本と朝鮮半島との関係を見つめてきた、紙幣・硬貨の数々です。
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参考文献 「朝鮮銀行 ある円通貨圏の興亡」 多田井善生(著) PHP新書
20世紀前半の朝鮮について、書かれた本を読む
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